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豊村酒造の創業者・豊村喜三郎の生い立ち、津屋崎の地で清酒醸造業を興すまでの経緯などを記録した記事が、西日本新聞の前身である「九州日報」に明治41年7月3~5日の3日間に渡り連載されました。
仮名遣いや旧字など、掲載当時のまま掲載いたします。
※記事の著作権はすでに消滅しておりますが、転載にあたり西日本新聞社様からのご了解を得ております。
福岡縣 實業家
十傑記事
豊村喜三郎君(宗像、酒造業)
九州日報 明治四十一年七月三~五日(第六千三百一四~六號)
(一)明治四一年七月三日
君は弘化四年十月十六日を以て、糟屋郡新宮村に生る、乃父は喜蔵氏と云ひ、魚類問屋に兼ねて酒造業を営む、君は其二男にして兄を平四郎氏と云ひ、新宮の家を嗣ぐ、一弟一妹あり、安政六年七月某日、喜蔵氏妻子を遺して逝く、時に君十二歳、平四郎氏十八歳にして、令弟喜助氏七歳、令妹雪子一歳なり、仍而伯父某氏後見をなす、家道此の訃に因って大いに衰え、亦た昔日の如からず、君奮然として身を起し、家を出てゝ他家に事へ、人生の苦楚を嘗めて始めて其業に就き、今日の降運には會せり。
君資性温厚、多くは言はず多く語らずと雖も、懍として冐かす可らざる威嚴あり、加ふるに膂力衆に秀で、六十二歳の今日と雖も、尚ほ壯者の及ぶ所にあらず。令閨はさく子と言い博多奥堂町の醸造家、堺氏の出なり一女重子を産む。明治廿一年福岡南港町萩尾家より男子を迎ゑて重子に配す、伊平と云ふ、不幸にして早世、愛孫喜一郎、喜八郎、伊三郎、喜十郎、楽子、川子、兼子の七名あり、長孫喜一郎氏二十歳、頴才を以て聞ゑ今や店務を補く。家族即ち十人、使役者数十、主従相和して怨聲なく、瑞雲常に夢を包む。
津屋崎の豊村と云へば、縣下屈指の酒造家として、其名関西に聞ゑて居るが、此の屈指の酒造家が、主人喜三郎君の腕一本から生れて居ると思へば層一層の尊敬が此の帘の大廈に拂はれ、層一層の重量が實業界に秤られるのだ。
君は畧傅の如く十二歳にして嚴君を喪はれた、君の家は元由緒ある家で、喜蔵氏の嚴父即ち喜三郎君の祖父は、當時苗字さえ許されて豊賀平四郎と呼び、筑前四十八浦の庄屋役を勤め、記録にも其名を遺して居られる程で、新宮の豊村家は喜蔵氏の幼年までは、素晴らしい勢力があったに相違ない、が、時勢の變遷は仕方がなく、漸々衰微し来りて喜蔵君の没後は一層悲運に向ひ、復た昔日の如からず、だが腐つても鯛は鯛なり、何ぼ衰へたと云つても、家もあれば庫もあり、父祖の業も廢するに至らず叔父君後見の下に、令兄平四郎氏専ら其業に鞅はつて居られたのである、所が、年未だ十三歳の君は、私かに考へた、兎も角も父祖の遺業は續いで居るやうなものだが、其業業に凭れかゝつて安閑として居れば、後には家と庫と共に、其名其身も滅びるに至るかも知れない、茲に愚圖々々して居る塲合でないと、雄々しくも決心し、未だ遊びたい盛りの君は、自分の意中を母堂や令兄に告げ、七年間暇を遣つて下さいと乞ひ、漸くにして其許しを得たので、短衣漂然、糟屋郡新宮村なる居宅を出で、宗像郡神湊に赴むき、同地永嶋と云ふ醤油や諸品を商ふ店に赴むき、奉公の事を相談した。新宮の豊村家の坊ちやんと知り、永嶋の主人も一時は驚ろいたが君が牢乎たる決心が眉宇の間に漂ひ、到底動かすべからざるを知るや、大いに感じて其乞ひを容れた。
ソコで、同家に住込んだ君は、其儘の丁稚格、使ひ走りから店務の手傳ひ、樽も送れば樽も拾ふ、箒を握る雑巾を掴む、其身体の動く事と云つたらない是が庄屋の家に生まれた坊ちやんであらうかと思はるゝばかり、見る人舌を捲かぬはなかつた、見る人が舌を捲くほど、君は亦た辛かつたに相違ない、冬は胼と皹に祟られ、夏は素足で焼けるやうな砂も踏む、時には涙も出たであらう、時には厭な気にもなつたであらう、が、其所を辛棒は身の藥と、押通すこと四ヶ年、十七歳まで同家に居つて具さに商業の呼吸を味ひ人世の趣味を會得されたのである。今日の成功は、蓋し此奉公に因をなして居ると言ても可い。
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